暴論8 近松を東洋の何とかと呼ぶ声

文楽業界でよく聞く話として、

 

「さすが文楽、ユネスコが認めた世界遺産。海外公演はいつも盛況」

 

というのがある。

 

確かに事実なのだろう。だが、あくまで、教養の香り高い一部の外国の人から、物珍しさもあって激賞されているのであって、本当にビジネス興行ベースで成功しているといえるのかは、よくわからない。仮に国際文化交流・親善ベースでお金をどんとつけてもらって行っているからうまくいっているだけだとすれば、純粋に海外滞在経費と集客による収入はバランスしているとまではいえないかもしれない。

 

一方で、近松門在衛門のことを、東洋のシェークスピアと呼ぶ声もある。

 

時代も、書いた作品も、文化的背景もまったく異なるので、この比喩の当否については敢えて述べないこととしよう。

 

だが、仮にもシェークスピアと比するなら、せめて、多言語化、つまり字幕も日英両語対応にできないものだろうか。

 

いや、たしかにイヤホンガイドには英語対応もある。だが、床本はどうだろう。

 

それこそ、電光掲示板に英語を出せないものだろうかと思うのだ。もっとも、大阪は東京のように左右に計2枚の電光掲示板があるわけではない。そこで、どうするのかといえば、電光掲示板を改修し、3D映像のように、異なる偏光グラスを掛けることによって、異なった映像(日本語/英語字幕)が見えるような設備を用意してはどうだろうか。

 

いや、その改修をするなら、大阪文楽劇場では、変えてほしいと思うことがもう一つある。字幕を上でなく、下に出せないものだろうか

そもそも、映画などの字幕は下に出るものだし、舞台の下方(地面・床の高さ)に人形がいるわけだから下に字幕があったほうが、人形の動きと同じ視野でとらえられてよいのではないか、というのがその理由である。

 

ただ、下に出すとなると、当然に手摺(一の手摺または二の手摺)のところに設置することになる。だが、本来、字幕は、義太夫の語りをリスニングできれば不要なもの。だから玄人鑑賞家にとっては本来邪魔だが、初心者向けに上や左右に仕方なくつけた「妥協の産物」である以上、目立つ舞台下に持ってくるなんてもってのほか、という意見も強かろう。

 

そんなとき、必要な人にだけ字幕を見せる方法を考える必要が当然出てくる。近未来的には、「googleグラス」みたいなもので対応するのがよかろうが、現代の技術としては、何もしなければ真っ白だが、特殊なメガネをかけると画像が見えるという技術もあるようなので、そういうものを導入すればいいと思う。すると、

 

字幕が要らない人には無地の壁(手摺)。

字幕を見たい人だけ、特殊なメガネ(デポジット制、実質無料貸出)をかけると、字幕が浮かび上がる。

 

という方法がとれるのである。嗚呼、ハイテク日本。外国人にも違う意味で喝采をいただけるのではないか。

 

こうして、ハードウェア面での、外国人向け受け入れ態勢は整えたとする。次はソフト面である。